「すごい」と「うらやましい」
これを書いているのはパリのパラリンピックの開会式の日だ。
暫定内閣のままの内政状況はまだ先が見えないままだけれど、オリンピックの幻想をもう一度、というわけで、メディアはあらたな聖火リレーやアスリートのインタビューなどをせっせと流している。
車椅子バスケの会場で、健常者の子供たちに車椅子でゲームさせるなど、障碍への理解を広めようという試みもニュースになっていた。
個人的には、パラリンピックには何か違和感を感じる。
オリンピックもナショナリズムやビジネス、利権にまみれているので、素直な見方などできなかったけれど、パラリンピックにはまた別の違和感がある。
義手義足、車椅子などのテクノロジーの差の問題だけでなく、障碍の程度の差をいかにカテゴリー化するかの問題もある。
さらに、パラリンピックどころか、日常生活も困難だったり、寝たきり、多角だけでなく判断能力にも障碍があったり、全面的ケアなしには生きていけない状態で生まれてから何十年も生きている人もいる。
そのような多くの「障碍者」とパラアスリートとの間にある断絶は、「健常者」とオリンピック選手との差とは質的な違いがある。
オリンピックのアスリートのすばらしいパフォーマンスを見ると、「すごい」とは思うけれど、「うらやましい、あんなふうになりたい」とは別に思わない。(その競技に関わっている人はべつだろうが。)
それでも「すごい」とは思えるのは、自分でもある程度の想像力がはたらくからだ。
私に関していえば、生涯で一番長く走らされたのは、体育の授業で400m、一番長く泳がされたのはやはり体育の授業でプールで100m、やはり体育の授業でバスケットボール、バレーボール、ソフトボールなど少し。柔道も兄とほんの少し。授業以外ではドッジボールやバドミントン、卓球くらい。
自分で決めてレッスンを受けたり実践したのはスケートとテニスとアーチェリーの三つだけ。(もちろん今となってはほぼ何もできない。)
それでも、アスリートたちが走っていたり、泳いでいたりするのを見ると、水や空気の抵抗のイメージなどは想像できる。
それでも、私とアスリートの間にあるのは断絶でなく「程度の差」で、限りなく大きな程度の差であっても、私と車椅子で暮らす人との生活の質における「断絶」とは別の種類のものだ。
パラアスリートのドキュメンタリーがニュースでたくさん流され、意気揚々とメダルを狙います、とインタビューに答えた後でプールに飛び込むと、両手がないのが分かる。すごいスピードだ。そのアスリートの泳ぎと、今では犬かきに近いような私の泳ぎには雲泥の差がある。「すごい」、でも、「うらやましい」とは思わない。
彼らがまるで別の種類の生き物のように思えるからだ。
それは、もっと重い障碍をかかえてスポーツどころか生きるのも大変な障碍者や支援者から見ても、そうなのではないだろうか、と思う。
私に関しては、世の中で「すごい」と思うことは多々あれど、「うらやましい」というのはめったにない。
世界チャンピオンの泳ぎだってすごいとは思っても、うらやましくはない。同じ「健常者」のグループだし、彼らのパフォーマンスの裏には大変な努力があるだろうな、途中で力尽きてドロップアウトする選手や健康を損なう選手もいるだろうな、私が親だったら、心配するだろうな、などと考えてしまうことさえある。
「貧富の差」だってそうだ。
世界の富裕層の暮らしぶりを見て「すごい」と思うことがあっても「うらやましい」と思うことはない。
「起きて半畳、寝て一畳、天下とっても二合半」という実感がある。自宅で良質のベッドで寝ることができれば宮殿の豪華寝室で寝る意味などないし、自家用ジェットであらゆる場所に、などという富豪がいても、そもそも飛行機は嫌いだし、さぞや炭素排出が多いだろうな、と思う。
使用人に囲まれて、などという生活も、プライバシーが守れない気もするし、不要な嫉妬も買うのではないかなどと思ってしまう。
豪華な食事などは、自分でさえ、昼レストランで食べたら夜は食欲がない。
一方で、その日の「半畳も一畳も二合半」も欠く人々がいる。その上にいつ頭の上にミサイルが落ちてくるかもしれないという環境にいる人たちもいる。そういう人たちと私との間にある「断絶」は、私と大富豪との間にある差とは質が違う。
「すごい」と「うらやましい」と、何が本質的なのかについて考えると、答えはすぐ出てくる気がする。
「生活の質」において断絶があるほど不利な人々に対して、何かすこしでも「できること」をさがして実践することだ。
カード払いが多くなった世の中で、フランスの教会は献金カゴのそばにカード読み取り機を置いている。
でも教会の前やメトロや道でその日の糧を求める人々にはカード読み取り機はない。
だから、外出時にはすぐに取り出せるような小銭や小額紙幣を持っていき、カバンで出しやすい場所に入れておく。
あまりにも些細なことだけど、小銭の持ち合わせがない、財布を持たない、という人が増えることでさらなる苦境に陥ることに気づく人も出てきた。
「すごい」、でも「うらやましくない」、という心に気づいたら、自分がどんなにささやかなスケールでも心身共に恵まれていると自覚して、何に、どこに、誰に、手を差し伸べることができるのかを考えたいものだ。
五輪開会式での「多様性」、パラ開会式での「インクルージョン」、フランスのユニヴァーサリズムとアングロサクソンのウォーキズムについて考える論考を進めている。
暫定内閣のままの内政状況はまだ先が見えないままだけれど、オリンピックの幻想をもう一度、というわけで、メディアはあらたな聖火リレーやアスリートのインタビューなどをせっせと流している。
車椅子バスケの会場で、健常者の子供たちに車椅子でゲームさせるなど、障碍への理解を広めようという試みもニュースになっていた。
個人的には、パラリンピックには何か違和感を感じる。
オリンピックもナショナリズムやビジネス、利権にまみれているので、素直な見方などできなかったけれど、パラリンピックにはまた別の違和感がある。
義手義足、車椅子などのテクノロジーの差の問題だけでなく、障碍の程度の差をいかにカテゴリー化するかの問題もある。
さらに、パラリンピックどころか、日常生活も困難だったり、寝たきり、多角だけでなく判断能力にも障碍があったり、全面的ケアなしには生きていけない状態で生まれてから何十年も生きている人もいる。
そのような多くの「障碍者」とパラアスリートとの間にある断絶は、「健常者」とオリンピック選手との差とは質的な違いがある。
オリンピックのアスリートのすばらしいパフォーマンスを見ると、「すごい」とは思うけれど、「うらやましい、あんなふうになりたい」とは別に思わない。(その競技に関わっている人はべつだろうが。)
それでも「すごい」とは思えるのは、自分でもある程度の想像力がはたらくからだ。
私に関していえば、生涯で一番長く走らされたのは、体育の授業で400m、一番長く泳がされたのはやはり体育の授業でプールで100m、やはり体育の授業でバスケットボール、バレーボール、ソフトボールなど少し。柔道も兄とほんの少し。授業以外ではドッジボールやバドミントン、卓球くらい。
自分で決めてレッスンを受けたり実践したのはスケートとテニスとアーチェリーの三つだけ。(もちろん今となってはほぼ何もできない。)
それでも、アスリートたちが走っていたり、泳いでいたりするのを見ると、水や空気の抵抗のイメージなどは想像できる。
それでも、私とアスリートの間にあるのは断絶でなく「程度の差」で、限りなく大きな程度の差であっても、私と車椅子で暮らす人との生活の質における「断絶」とは別の種類のものだ。
パラアスリートのドキュメンタリーがニュースでたくさん流され、意気揚々とメダルを狙います、とインタビューに答えた後でプールに飛び込むと、両手がないのが分かる。すごいスピードだ。そのアスリートの泳ぎと、今では犬かきに近いような私の泳ぎには雲泥の差がある。「すごい」、でも、「うらやましい」とは思わない。
彼らがまるで別の種類の生き物のように思えるからだ。
それは、もっと重い障碍をかかえてスポーツどころか生きるのも大変な障碍者や支援者から見ても、そうなのではないだろうか、と思う。
私に関しては、世の中で「すごい」と思うことは多々あれど、「うらやましい」というのはめったにない。
世界チャンピオンの泳ぎだってすごいとは思っても、うらやましくはない。同じ「健常者」のグループだし、彼らのパフォーマンスの裏には大変な努力があるだろうな、途中で力尽きてドロップアウトする選手や健康を損なう選手もいるだろうな、私が親だったら、心配するだろうな、などと考えてしまうことさえある。
「貧富の差」だってそうだ。
世界の富裕層の暮らしぶりを見て「すごい」と思うことがあっても「うらやましい」と思うことはない。
「起きて半畳、寝て一畳、天下とっても二合半」という実感がある。自宅で良質のベッドで寝ることができれば宮殿の豪華寝室で寝る意味などないし、自家用ジェットであらゆる場所に、などという富豪がいても、そもそも飛行機は嫌いだし、さぞや炭素排出が多いだろうな、と思う。
使用人に囲まれて、などという生活も、プライバシーが守れない気もするし、不要な嫉妬も買うのではないかなどと思ってしまう。
豪華な食事などは、自分でさえ、昼レストランで食べたら夜は食欲がない。
一方で、その日の「半畳も一畳も二合半」も欠く人々がいる。その上にいつ頭の上にミサイルが落ちてくるかもしれないという環境にいる人たちもいる。そういう人たちと私との間にある「断絶」は、私と大富豪との間にある差とは質が違う。
「すごい」と「うらやましい」と、何が本質的なのかについて考えると、答えはすぐ出てくる気がする。
「生活の質」において断絶があるほど不利な人々に対して、何かすこしでも「できること」をさがして実践することだ。
カード払いが多くなった世の中で、フランスの教会は献金カゴのそばにカード読み取り機を置いている。
でも教会の前やメトロや道でその日の糧を求める人々にはカード読み取り機はない。
だから、外出時にはすぐに取り出せるような小銭や小額紙幣を持っていき、カバンで出しやすい場所に入れておく。
あまりにも些細なことだけど、小銭の持ち合わせがない、財布を持たない、という人が増えることでさらなる苦境に陥ることに気づく人も出てきた。
「すごい」、でも「うらやましくない」、という心に気づいたら、自分がどんなにささやかなスケールでも心身共に恵まれていると自覚して、何に、どこに、誰に、手を差し伸べることができるのかを考えたいものだ。
五輪開会式での「多様性」、パラ開会式での「インクルージョン」、フランスのユニヴァーサリズムとアングロサクソンのウォーキズムについて考える論考を進めている。
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