エドガー・モランと日野原重明
Sciences Humaines(人文科学)という雑誌の夏の特別号はエドガー・モランの特集だった。
これ。
彼がこれまでに同誌に書いてきた記事の再掲も含めて、あらためて、彼の「継続する明晰さ」に脱帽する。
私が彼の本をはじめて読んだのはフランス語でエコロジーについての者だった。その時初めてエコロジーという言葉を知った。21世紀に入ってエコロジーがこれほど世界的なイデオロギーになるなど想像もしなかった。
それからも、モランの論考はいろいろ読んできた。すべてに賛同できるとは限らなかったが信頼のおける人だと思ってきた。レジス・ドブレとの親交も理解できる。
彼がいつまでも「現役」であることにも感心していたが、この特集では「103歳」になった彼が、今の心境を綴ったものもあり、103歳を超えても明晰さも感受性も衰えていないばかりか「賢者の風格」ではなく、青年のような清冽さと歓びに感動した。
彼の経歴については日本のwikipediaにも載っているのでリンクしておこう。
100歳を超えた知識人だから当然死を視野に入れているのだけれど、死後の世界や救いや神などについては語らず、自分の周りの宇宙などマクロな世界から、ミクロな昆虫や植物の世界までが与えてくれる驚嘆に喜び、もう少しこれを味わっていたいという。自分が死ねば、自分を囲み支えてくれていたこれらすべてが自分と共に失われることが残念だからだ。
人類が太陽を崇めたり月を崇めたりしてきたことの自然さを実感しているという。
日本人で100歳を超えて「現役」だった知識人と言えば、日野原重明さん(日本語だと自然に敬称をつけてしまう。フランス語だと、フルネームだと本人を前にしても敬称をつけないでいい。ムッシュー・モランとは言っても、ムッシュー・エドガー・モランと言わなくてもいい)を思い出す。
でも、日野原さんが医師であったせいか、私の記憶にある限り、90歳でも100歳でも「現役」ということで「生きかた上手」とか、健康の秘訣とか、著書のタイトルも95歳とか97歳とか 100歳とか103歳とか105歳など年齢が強調されている。私の母も愛読者だったが、高齢者に希望を与える存在だったようだ。そういえば作家の佐藤愛子さんも、90歳とか98歳とか年齢を強調したタイトルの本が人気で、今も100歳を強調されている。
(エドガー・モランにも「一世紀の人生の教訓」という本はある。)
(日野原さんの人生観にはクリスチャンとしての信仰が基礎にあるが、日本の女性高齢者はもっとさばさばしているような気がする。出家した瀬戸内寂聴ですら、さばさばしていた。エドガー・モランは汎神論的で自然な感じがする)
誰でも健康長寿、生涯現役などという人に憧れたりあやかりたいと思ったりする気持ちは分かるし、それが出版の「ビジネス」になるというのも分かるけれど、日本とフランスの差にあらためて驚く。
フランス人はそもそも、早く現役をリタイアして自由を謳歌したいというのがデフォルトだ。
もちろん思想家やアーティストにとっては、「定年」など関係なく、ずっと第一線で発言したり活動したりするのは当然なのだが、その「内容」の質が評価されるので「何歳」だというのは関係がない。でも、フランスの思想家やアーティストを前にした日本人は、つい、この人、いったい何歳なんだろう、と調べてしまうことが多い。
思想家にも芸術家にも、早逝しながらすばらしい仕事を残す人もあれば、長い経験を積み上げて模索した跡を残しながら、成熟を遂げる人もある。長生きしても早々と第一線を引く人もあれば、劣化したり転向したりする人もある。まさに人それぞれだ。
「普通の人」でも心身や社会関係の健康状態は、高齢になるにつれて、遺伝子やそれまでの生活習慣などによる「差」がはっきりしてくるのに、健康長寿願望とビジネスはいつも理想のモデルを提供し、「あなたもやればできる」的な幻想を与えるのだ。
日野原さんの本を検索したら、「高齢の親にプレゼントした」というのが多かった。
この「高齢」というのは80代が標準で(子供はまだ高齢者の域ではない現役)、80代の親たちは、100歳でも現役で人生を楽しみ若者を励ます日野原さんを見て、希望を持つのだろう。
でも、日野原さん監修の「生きかた上手 3年日記」というハードカバーの本を白いままに残した私の母は80代前半、父は80代後半で亡くなった。
エドガー・モランの本を「高齢の親にプレゼント」するという人は皆無だろう。
私も、何となく自分の親の年を目安にするので、後10年くらいは仕事ができるだけの健康があると仮定して、さまざまなプランを練っている。(エドガー・モランから元気をもらうなら後30年もこの世界を見ていられる計算だが、非現実的だ。)
父も母も、日野原さんも、エドガー・モランも、第二次世界大戦の戦争体験者だ。
戦争や戦後を生き延びた運と気力、体力に恵まれたともいえる。
今、後期高齢者に突入している「戦後世代」、80年近くもの間、国内での戦火が一度もなかった日本やフランスで、「焼け跡」も見ずに育った私やフランスの友人の世代とは、徹底的に違う何かがあるような気もする。
そして、また次の世代はというと、今や、ドローンを使うなど別の形での戦争、核兵器の拡散、地球温暖化など、不安材料はいくらでもある。
私の世代が100歳まで生きて次世代を励ますことなどが可能かどうか分からない。
でも、不滅のジャンルというのは存在する。真理の探究や美の探究だ。
生きているうちにその流れにささやかでも何かを付け加えることができたら、と思う。
これ。
彼がこれまでに同誌に書いてきた記事の再掲も含めて、あらためて、彼の「継続する明晰さ」に脱帽する。
私が彼の本をはじめて読んだのはフランス語でエコロジーについての者だった。その時初めてエコロジーという言葉を知った。21世紀に入ってエコロジーがこれほど世界的なイデオロギーになるなど想像もしなかった。
それからも、モランの論考はいろいろ読んできた。すべてに賛同できるとは限らなかったが信頼のおける人だと思ってきた。レジス・ドブレとの親交も理解できる。
彼がいつまでも「現役」であることにも感心していたが、この特集では「103歳」になった彼が、今の心境を綴ったものもあり、103歳を超えても明晰さも感受性も衰えていないばかりか「賢者の風格」ではなく、青年のような清冽さと歓びに感動した。
彼の経歴については日本のwikipediaにも載っているのでリンクしておこう。
100歳を超えた知識人だから当然死を視野に入れているのだけれど、死後の世界や救いや神などについては語らず、自分の周りの宇宙などマクロな世界から、ミクロな昆虫や植物の世界までが与えてくれる驚嘆に喜び、もう少しこれを味わっていたいという。自分が死ねば、自分を囲み支えてくれていたこれらすべてが自分と共に失われることが残念だからだ。
人類が太陽を崇めたり月を崇めたりしてきたことの自然さを実感しているという。
日本人で100歳を超えて「現役」だった知識人と言えば、日野原重明さん(日本語だと自然に敬称をつけてしまう。フランス語だと、フルネームだと本人を前にしても敬称をつけないでいい。ムッシュー・モランとは言っても、ムッシュー・エドガー・モランと言わなくてもいい)を思い出す。
でも、日野原さんが医師であったせいか、私の記憶にある限り、90歳でも100歳でも「現役」ということで「生きかた上手」とか、健康の秘訣とか、著書のタイトルも95歳とか97歳とか 100歳とか103歳とか105歳など年齢が強調されている。私の母も愛読者だったが、高齢者に希望を与える存在だったようだ。そういえば作家の佐藤愛子さんも、90歳とか98歳とか年齢を強調したタイトルの本が人気で、今も100歳を強調されている。
(エドガー・モランにも「一世紀の人生の教訓」という本はある。)
(日野原さんの人生観にはクリスチャンとしての信仰が基礎にあるが、日本の女性高齢者はもっとさばさばしているような気がする。出家した瀬戸内寂聴ですら、さばさばしていた。エドガー・モランは汎神論的で自然な感じがする)
誰でも健康長寿、生涯現役などという人に憧れたりあやかりたいと思ったりする気持ちは分かるし、それが出版の「ビジネス」になるというのも分かるけれど、日本とフランスの差にあらためて驚く。
フランス人はそもそも、早く現役をリタイアして自由を謳歌したいというのがデフォルトだ。
もちろん思想家やアーティストにとっては、「定年」など関係なく、ずっと第一線で発言したり活動したりするのは当然なのだが、その「内容」の質が評価されるので「何歳」だというのは関係がない。でも、フランスの思想家やアーティストを前にした日本人は、つい、この人、いったい何歳なんだろう、と調べてしまうことが多い。
思想家にも芸術家にも、早逝しながらすばらしい仕事を残す人もあれば、長い経験を積み上げて模索した跡を残しながら、成熟を遂げる人もある。長生きしても早々と第一線を引く人もあれば、劣化したり転向したりする人もある。まさに人それぞれだ。
「普通の人」でも心身や社会関係の健康状態は、高齢になるにつれて、遺伝子やそれまでの生活習慣などによる「差」がはっきりしてくるのに、健康長寿願望とビジネスはいつも理想のモデルを提供し、「あなたもやればできる」的な幻想を与えるのだ。
日野原さんの本を検索したら、「高齢の親にプレゼントした」というのが多かった。
この「高齢」というのは80代が標準で(子供はまだ高齢者の域ではない現役)、80代の親たちは、100歳でも現役で人生を楽しみ若者を励ます日野原さんを見て、希望を持つのだろう。
でも、日野原さん監修の「生きかた上手 3年日記」というハードカバーの本を白いままに残した私の母は80代前半、父は80代後半で亡くなった。
エドガー・モランの本を「高齢の親にプレゼント」するという人は皆無だろう。
私も、何となく自分の親の年を目安にするので、後10年くらいは仕事ができるだけの健康があると仮定して、さまざまなプランを練っている。(エドガー・モランから元気をもらうなら後30年もこの世界を見ていられる計算だが、非現実的だ。)
父も母も、日野原さんも、エドガー・モランも、第二次世界大戦の戦争体験者だ。
戦争や戦後を生き延びた運と気力、体力に恵まれたともいえる。
今、後期高齢者に突入している「戦後世代」、80年近くもの間、国内での戦火が一度もなかった日本やフランスで、「焼け跡」も見ずに育った私やフランスの友人の世代とは、徹底的に違う何かがあるような気もする。
そして、また次の世代はというと、今や、ドローンを使うなど別の形での戦争、核兵器の拡散、地球温暖化など、不安材料はいくらでもある。
私の世代が100歳まで生きて次世代を励ますことなどが可能かどうか分からない。
でも、不滅のジャンルというのは存在する。真理の探究や美の探究だ。
生きているうちにその流れにささやかでも何かを付け加えることができたら、と思う。
この記事へのコメント