individuation と individualisation
近頃、individuation と individualisation について考えさせられる。
私も含めて、同世代が高齢化してきているのだけれど、「健康」に対するアプローチに違いが多すぎる。
半年に一度はいろいろな検査をしたり人間ドックに入ったり、という人もいるし、いろいろな健康法は実践していてサプリも飲んでいるけれど検査はしない人もいるのだけれど、そのどちらも「数値」を異常に気にするタイプの人がいる。体重や体脂肪などはもちろん、血圧、血糖値、肝臓や心臓や腎臓の働きに関する検査の数値。
「正常値」原理主義の人もいて、特に、異常値だったのを自分の食事療法や運動療法で正常にしたり服薬や手術で正常に戻した人たちの中には、数値が「正常」から外れるとパニックになる人もいるし、友人知人親戚などにそういう人がいると大騒ぎして善意のアドバイスを与える人もいる。
私は違うけれど、そういう流れを見るのに疲れてきた。和田秀樹さんのように「マイ高値」でOKという人の話を聞くとほっとするけれど、彼のように堂々としてはいられない。高血糖があるので年に数回検査するのだけれど、検査の一週間前だけストレスで体調が悪くなる。最初に高血糖が判明してから16 年、やろうと思えば血糖値を下げられることも分かったし、網膜も腎臓も末梢神経も傷んでいないことも分かっている。
主治医とはメールでも情報交換をするような間柄なので、私にとって最重要なのは、私自身の体調や生活上の良好感だということ、それは私が一番よく把握しているということを主治医は理解してくれている。
もともと特別元気でとか頑健と言うのとは程遠いので、加齢にともなう体力低下のようなショックは大きくない。
ただし、ネットのせいで、情報が多すぎる。
例えば、同年配の知人の誰かが、これこれこういう症状でこう診断されてしまいました、なんて話を聞くと、頼まれたわけでもないのに必ずネットで病名や治療法を検索してしまう。ほとんどがはじめて耳にする病名で、親きょうだいにもなじみがないものだから、私が罹患する可能性は低いはずだしこれといって予防する必要もないと思うものでも、「一応気になる」。
いや、知人でなくても、メディアで見かける人が闘病したり亡くなったりするのを見聞きすると、やはり検索してしまう。
でも、各種検査の「正常値」も、各種病気の「標準治療」も、皆、統計的な平均を基準にしているだけだ。
特に、高齢者ともなると、「異常値」や「症状」が出たとしても、それまでの環境、生き方、病歴、生活習慣、ストレス、全てにおいて、個人差が大きい。「どこも悪くない」のにある種の検査数値が異常だという人も一定数いて、そういう人は統計から外されるわけだけれど、医師や検査技師にも勇気がいる。
シンギュラリティというと今はコンピューターの特異点として使われるけれど、もとは全ての個体における特異性を指す。
個体は特異性を持ち、それが「個性」だ。
個性化はindividuationという。
個体を他から分けるindividualisationとはちがう。
自分だけではなく、親しい家族が、検査の「正常値」を外れたり、どんどん「悪化」したりしても、彼らの生活歴や体質や心身の個性をよく知っている場合は、一歩距離を置いて、治療や経過観察も「個性」とマッチしたものになるように支援しよう。
それでなくとも多くの「正常値」には年齢や人種や体格を無視したものさえある。
そもそも「高齢者」がネットで情報を検索できているという時点で、ある程度の生活の質を維持しているわけなのに、自分で自分の不安を煽ることなどしないようしたい。ひと昔前の高齢者の方が、のんびり年をとれたかなあ、と思ってしまう。
私も含めて、同世代が高齢化してきているのだけれど、「健康」に対するアプローチに違いが多すぎる。
半年に一度はいろいろな検査をしたり人間ドックに入ったり、という人もいるし、いろいろな健康法は実践していてサプリも飲んでいるけれど検査はしない人もいるのだけれど、そのどちらも「数値」を異常に気にするタイプの人がいる。体重や体脂肪などはもちろん、血圧、血糖値、肝臓や心臓や腎臓の働きに関する検査の数値。
「正常値」原理主義の人もいて、特に、異常値だったのを自分の食事療法や運動療法で正常にしたり服薬や手術で正常に戻した人たちの中には、数値が「正常」から外れるとパニックになる人もいるし、友人知人親戚などにそういう人がいると大騒ぎして善意のアドバイスを与える人もいる。
私は違うけれど、そういう流れを見るのに疲れてきた。和田秀樹さんのように「マイ高値」でOKという人の話を聞くとほっとするけれど、彼のように堂々としてはいられない。高血糖があるので年に数回検査するのだけれど、検査の一週間前だけストレスで体調が悪くなる。最初に高血糖が判明してから16 年、やろうと思えば血糖値を下げられることも分かったし、網膜も腎臓も末梢神経も傷んでいないことも分かっている。
主治医とはメールでも情報交換をするような間柄なので、私にとって最重要なのは、私自身の体調や生活上の良好感だということ、それは私が一番よく把握しているということを主治医は理解してくれている。
もともと特別元気でとか頑健と言うのとは程遠いので、加齢にともなう体力低下のようなショックは大きくない。
ただし、ネットのせいで、情報が多すぎる。
例えば、同年配の知人の誰かが、これこれこういう症状でこう診断されてしまいました、なんて話を聞くと、頼まれたわけでもないのに必ずネットで病名や治療法を検索してしまう。ほとんどがはじめて耳にする病名で、親きょうだいにもなじみがないものだから、私が罹患する可能性は低いはずだしこれといって予防する必要もないと思うものでも、「一応気になる」。
いや、知人でなくても、メディアで見かける人が闘病したり亡くなったりするのを見聞きすると、やはり検索してしまう。
でも、各種検査の「正常値」も、各種病気の「標準治療」も、皆、統計的な平均を基準にしているだけだ。
特に、高齢者ともなると、「異常値」や「症状」が出たとしても、それまでの環境、生き方、病歴、生活習慣、ストレス、全てにおいて、個人差が大きい。「どこも悪くない」のにある種の検査数値が異常だという人も一定数いて、そういう人は統計から外されるわけだけれど、医師や検査技師にも勇気がいる。
シンギュラリティというと今はコンピューターの特異点として使われるけれど、もとは全ての個体における特異性を指す。
個体は特異性を持ち、それが「個性」だ。
個性化はindividuationという。
個体を他から分けるindividualisationとはちがう。
自分だけではなく、親しい家族が、検査の「正常値」を外れたり、どんどん「悪化」したりしても、彼らの生活歴や体質や心身の個性をよく知っている場合は、一歩距離を置いて、治療や経過観察も「個性」とマッチしたものになるように支援しよう。
それでなくとも多くの「正常値」には年齢や人種や体格を無視したものさえある。
そもそも「高齢者」がネットで情報を検索できているという時点で、ある程度の生活の質を維持しているわけなのに、自分で自分の不安を煽ることなどしないようしたい。ひと昔前の高齢者の方が、のんびり年をとれたかなあ、と思ってしまう。
この記事へのコメント
実は、Sekkoさまが愚生の拙記事をリンクされたとき、その感激リコメを親サイトの「おしゃべりルーム」に書き込みました。
ところが、そこでも書き込みは失敗。しかたなく「たかが肩」の方に書いたのですが、もういちど「おしゃべりルーム」に挑戦。
すべてが良好だと思ったのですが、その書き込みんだコメントがどうしても読めない。なんどかアプローチしたらOK。でも、再度アクセスしたら、また駄目。
このところ、コメントができないというか、失敗の連続で難儀しています。
ちなみにその投稿コメントは、本記事へのコメントも付記しています。ただ、コメントがなんらかの不具合で飛んでしまったかもしれません。
いちおう、コメントをデータとして残していましたので、本記事へのコメントとして再録いたします。
「individuation と individualisation」の微妙な差異について、いろいろ考えました。
目から鱗というか、個人がもつ自分の身体感覚は、おっしゃるように、生き方、病歴、生活習慣、ストレスなどすべて暗黙知みたいにインプットされていると思います。
個人差はすごくありましょうが、年齢を重ねるなかで、病気や異状はじぶんなりに構えができます。
そういうことを何も考えない人は、それはそれで幸せなんでしょうけど・・。
それにしても、最近のお医者さんは、データのみを注視しますよね。それも、血中のなかの物質の程度、正常か異常か、ふるまいだけを診ている。そのデータの平均的基準で処方の方針をきめる。
身体のなかの個性をみて、その行く末を語るようなお医者さんがいたら嬉しいんですが・・。
以上です。