日本のマスク事情、 フランスの自殺幇助の条文化
3週間後には日本にいる予定。
コロナが5類になるより前なので、まだワクチン証明の登録をしなくてはならない。前のMy SOSだかのアプリはなくなったからやり直し。
気が重くてまだやっていない。
前回行った時ははじめて、入国後の自主隔離期間とかがなくなり出発前の検査も空港での検査もなくなった後だった(というより、それらがあるうちは一時帰国の意味をなさないのでスルーしていた)。 カナダ入国のアプリで苦労した後でまだ慣れていたけれど、あれから半年、また繰り返すのかと思うとうんざりす。スマホを持っていないのでまたIpadに入れていく。
以前にガラケーを貸してくださった友人がすでに日本に一時帰国中なので、今回はどうしようかと思ったが、日本でだけ使うスマホを起動するつもりだ。月550円で使わない時は290円、通話料もごく安いので、以前プリペイドに毎回1年分の1万円をいれていたときよりも安上がりだ。
その後はフランスではカメラとして使おうと思うが、どうなるだろう。
日本のマスク事情が今回どうなっているか行ってみないと分からない。
前回、すっかり忘れて、道行く人を見てから気づいたことがある。取りに帰るのが面倒だったので、目立たないように歩いて銀行のATMで用事を済ませて戻った。
ホテルの部屋を出る時につけ忘れたこともあるけれど、館内にほとんど人がいなかったのでそのまま歩いた。
レストランなどを出る時などにも付け忘れるが、同席者がさっとマスクをつけて立つのであわててつけた。
いろいろな意味で基準が分からない。
子供に3 年間もマスク世間を見せつけるのだけは絶対に間違っていると思うのだけれど。
今、一部では、「マスク外せ」圧力のある場所もあるのだとか。
フランスについては、マスク着用が罰金付きの義務だった1年くらいの時期を除いて、一般人同士のマスク圧などはゼロだし、今は薬局などもマスクなしで対応している。コロナ禍とマスクは、名高い日本の「世間圧」を可視化したとつくづく思う。
そして、私も見た目が日本人なのだから、人通りも少ない秋の表参道を歩く時もすなおにマスクをつけていた。
マスクをつけてなんとなく匿名気分になる安心感もすんなり共有できたくらいだ。
国民性とかアイデンティティとかいうけれど、一歩その国や地域や共同体を出れば簡単に変わってしまう。
存在の深いところにある根とは関係がない。
国籍や人種や性別や肩書も同じだろうなと思う。
フランスでは「自殺幇助」について他の国と違うニュアンスを与えようと政府が必死になっている。
哲学者のアンドレ・コント=スポンヴィルが、病の最終段階における安楽死は別として、寝たきりではない人が自由意志で自死を決意した時に、道具や薬を調達できない時に、窓から飛び降りるしかないのはつらいから、自殺幇助を頼める社会がいいと言っていた。ポストモダンの旗手の一人、哲学者のジル・ドゥルーズのことだ。彼は人工肺で暮らしていて70歳でパリの自宅のアパルトマンから飛び降りて死んだからだ。
ドゥルーズは、家族仲もよく、人生に対してポジティヴな人だった。
その彼がこうして死を選んだことを家族がどう受け止めていたのかは知らない。
確かに、「飛び降り自殺」という形には、他の自殺にはないヴァイオレンスがある。
列車などへの「飛び込み自殺」というのもそうだ。
両方とも、第三者を巻き込んだり「迷惑をかける」というリスクにおいても「暴力的」であり得る。
そのヴァイオレンスの中には、まだ「生」への意志が潜んでいるようで、「自殺幇助」のシステムがその矛盾を解決できるのかどうかは、分からない。
コロナが5類になるより前なので、まだワクチン証明の登録をしなくてはならない。前のMy SOSだかのアプリはなくなったからやり直し。
気が重くてまだやっていない。
前回行った時ははじめて、入国後の自主隔離期間とかがなくなり出発前の検査も空港での検査もなくなった後だった(というより、それらがあるうちは一時帰国の意味をなさないのでスルーしていた)。 カナダ入国のアプリで苦労した後でまだ慣れていたけれど、あれから半年、また繰り返すのかと思うとうんざりす。スマホを持っていないのでまたIpadに入れていく。
以前にガラケーを貸してくださった友人がすでに日本に一時帰国中なので、今回はどうしようかと思ったが、日本でだけ使うスマホを起動するつもりだ。月550円で使わない時は290円、通話料もごく安いので、以前プリペイドに毎回1年分の1万円をいれていたときよりも安上がりだ。
その後はフランスではカメラとして使おうと思うが、どうなるだろう。
日本のマスク事情が今回どうなっているか行ってみないと分からない。
前回、すっかり忘れて、道行く人を見てから気づいたことがある。取りに帰るのが面倒だったので、目立たないように歩いて銀行のATMで用事を済ませて戻った。
ホテルの部屋を出る時につけ忘れたこともあるけれど、館内にほとんど人がいなかったのでそのまま歩いた。
レストランなどを出る時などにも付け忘れるが、同席者がさっとマスクをつけて立つのであわててつけた。
いろいろな意味で基準が分からない。
子供に3 年間もマスク世間を見せつけるのだけは絶対に間違っていると思うのだけれど。
今、一部では、「マスク外せ」圧力のある場所もあるのだとか。
フランスについては、マスク着用が罰金付きの義務だった1年くらいの時期を除いて、一般人同士のマスク圧などはゼロだし、今は薬局などもマスクなしで対応している。コロナ禍とマスクは、名高い日本の「世間圧」を可視化したとつくづく思う。
そして、私も見た目が日本人なのだから、人通りも少ない秋の表参道を歩く時もすなおにマスクをつけていた。
マスクをつけてなんとなく匿名気分になる安心感もすんなり共有できたくらいだ。
国民性とかアイデンティティとかいうけれど、一歩その国や地域や共同体を出れば簡単に変わってしまう。
存在の深いところにある根とは関係がない。
国籍や人種や性別や肩書も同じだろうなと思う。
フランスでは「自殺幇助」について他の国と違うニュアンスを与えようと政府が必死になっている。
哲学者のアンドレ・コント=スポンヴィルが、病の最終段階における安楽死は別として、寝たきりではない人が自由意志で自死を決意した時に、道具や薬を調達できない時に、窓から飛び降りるしかないのはつらいから、自殺幇助を頼める社会がいいと言っていた。ポストモダンの旗手の一人、哲学者のジル・ドゥルーズのことだ。彼は人工肺で暮らしていて70歳でパリの自宅のアパルトマンから飛び降りて死んだからだ。
ドゥルーズは、家族仲もよく、人生に対してポジティヴな人だった。
その彼がこうして死を選んだことを家族がどう受け止めていたのかは知らない。
確かに、「飛び降り自殺」という形には、他の自殺にはないヴァイオレンスがある。
列車などへの「飛び込み自殺」というのもそうだ。
両方とも、第三者を巻き込んだり「迷惑をかける」というリスクにおいても「暴力的」であり得る。
そのヴァイオレンスの中には、まだ「生」への意志が潜んでいるようで、「自殺幇助」のシステムがその矛盾を解決できるのかどうかは、分からない。
この記事へのコメント
今回は聴講しながら、次のような事を考えました。飛躍があったり、間違いがあったりしたら、教えていただけると幸いです。
カトリコス、オイクメネーという言葉を初めて聞きました。検索しても出てきませんでしたが、このように理解しました。
カトリコスは普遍性。普遍的であるためには多様性が必要だから、多様性と相性がいい。
オイクメネーは覇権主義。画一的な概念を被支配者におしつける。
ご講演で言及された、アンドレ・コント=スポンヴィルは、新型コロナの騒ぎについて、「私としては、全体主義国家のなかでコロナウイルスから救われ、そしてその全体主義国家を子どもたちに遺贈するよりは、自由のある国で罹患するほうがましです!」と言っていますね。
私は以前は日本は自由がなくて生きづらいと思っていましたが、コロナで考えを変えました。スウェーデン以外の欧米諸国がこぞってロックダウンをし、ワクチンの強制接種をしたのを知って戦慄が走りました。
日本ではロックダウンもなかったし、私は医療者ですがワクチンを打たずとも仕事に何の制約もありませんでした。
欧米は強権的だなぁと、つくづく思いました。そして今日のご講演から言葉を借りればオイクメネーで、コロナは非常事態だからロックダウンとワクチンの強制接種に値するというコロナ覇権主義が幅をきかせたなぁと。
けど、欧米ではとっくに生活が元に戻ったと聞きますが、寝たきりで地方の老人ホームに入っている私の母はまだ面会禁止ですし、コロナ感染防止を最優先の介護を今も受けています。
家族・他の入所者・介護者と顔を合わせるよりも感染防止が優先され、きめ細かな介護よりも感染防止が優先されて、心身の衰えが加速したと残念ながら、確信します。
欧米ではコロナに関して多様な意見は圧殺され、ロックダウンやワクチンの強制接種で一般の人の権利が損なわれたけど、そのおかげで集団ヒステリーがおさまった。
逆に日本ではコロナに関しても自由が尊重されたが、その結果として集団ヒステリーが今でも続いており、私の母のような弱者がより大きな被害を受けている。
コロナ覇権主義というオイクメネーが、自由というカトリコス=普遍的価値?よりも、弱者を守ったといえるのかも知れない。
それでも、母のような弱者を守るために、比較的強者である私たちが確率は低いとはいえワクチンというロシアン・ルーレットを受けるべきなのか、それは嫌だなぁと正直いって思います。
ついでに、コロナ騒動の初期にジョンソン元イギリス首相も、日本の為政者達もコロナは大したことないと言ったり、顎マスクしたり、会食したり‥いくら特権的に医療が受けられても、コロナが怖かったらそんな事をしないだろうから、彼らは分かっていて、欧米の為政者たちもウィルス学的にはロックダウンやワクチンの強制接種は必要ないけど、集団ヒステリー対策として断行したんじゃないかと思っています。
カトリコスなんて、「愚民」には猫に小判じゃないのかとも。
今日初めての言葉で、カトリコスもオイクメネーも意味を理解できたか心もとないですが、こういう事を思いながら聞いていました。
他にもいろいろと考えさせられました。良いご講演を有難うございました。
フランスは最初の55日間のロックダウンは確かにシュールでしたが、たとえば自閉症の人々には例外を設けるなどは比較的早く決められましたし、カトリック教会が強く抗議したので、2度目のロックダウンからは、宗教の典礼出席に関しては時間や距離制限が撤廃され、書店、図書館、美容院などは「エッセンシャル」として再開しました。屋内のマスクは義務だったので教会でもマスクでしたが、歌は歌えました。
ワクチンは「強制」や「義務」ではありませんでしたから、毎回のPCR検査でしのぐ人も少なくはなかったです。少なくとも、はじめから、コロナに罹患した人を責めるような感じはなかったです。
私は、去年の秋も、今月はじめも、96歳になられるベルギー人宣教師を姫路に訪問しました。彼と会う時、互いにもちろんマスクはしていません。極端な話、彼が私を通して何らかの病気を発症したとしても、互いに1ミリも後悔しないと確信しています。
開地さまは医療者ということでおかあさまもご心配なさっていたかもしれませんね。
コロナ禍は多くの人にとって試練の時期だったと思います。でもあらためて「寄り添い」ということの意味を考えさせてくれました。
開地さまとおかあさまのためにお祈りします。
けど、コメントとお祈りを有難うございました。